【ネタばれあり】魂と肉体は同一でなく、ただ友と側にいる。「シン仮面ライダー」を見てきました。

シン仮面ライダーポスター

こんにちは、しーらです。先日、ようやく「シン仮面ライダー」を鑑賞してきました。独特のシナリオでありながら、「仮面ライダーらしさ」という抽象的概念をしっかり表現した良作です。

 

仮面ライダーになる覚悟

最序盤、主人公の本郷猛はSHOCKERの元研究者緑川博士に人体改造され、「バッタオーグ」としてその能力をいかんなく発揮します。その力は非常にすさまじく、ただの人間であれば一撃で惨殺してしまう無情の強さでした。その強さに戸惑い、慄く猛は緑川博士の娘であるルリ子に「覚悟がなければその力は十二分に活かせない」と見放されてしまいます。そんな中、次の敵「コウモリオーグ」と対峙したルリ子はコウモリオーグの術中にはまりピンチに陥ります。その状況を知った猛は「力がなければだれも守れない」ことを自覚し、自分の力と向き合う覚悟を持ちました。そしてルリ子を助け、「仮面ライダー」としてコウモリオーグを撃破するのでした。

さて、従来の仮面ライダーは怪人に対する力の表現はあっても一般人に対する力の表現はなかったと思います。それをあっけなく、無情に描き出すのは私としては衝撃的な表現と感じました。本来、SHOCKERのために行使する力ですから強力なのは当然です。それを暴力など振るったことない人間がいきなり手にしたらどうなるでしょうか? そして、その力をどうするのでしょうか? 暴力でなくとも大きな力を手にしたときの感情を、今作は丁寧に描いているなと感じました。

SHOCKERの存在は人類が求める救済の形の1つではないか

SHOCKERとは「Sustainable Happiness Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」、意訳すると「科学的知識を駆使した改造によって、持続可能な幸福を与える組織」と名乗っています。従来の仮面ライダーでは世界征服を企むという勧善懲悪のテーマとしてはもっとも普遍的な目標を掲げていたSHOCKERが、今作ではなぜこのような指針になったのでしょうか。もちろん、昨今の創作には「悪にならざるを得なかった」存在がトレンドとしてあります。しかし今作のSHOCKERの心情を「私たちは正義である」と表現していると感じました。

今の時代では国や法律が全てではなく、普通の倫理観では解決できないと感じている人が増えている気がします。つまり、正義のために犠牲はやむを得ない、という事です。冤罪、施設での虐待、収賄、横領……。どうしようもないことを、どうしようもないとして、非合法な手段に手を出してしまう。これが救済だと認められてしまうのです。今作におけるSHOCKERは、そんな人類の綻びを汲み取ろうとしているのかもしれません。私としては、共感できませんが。

大切なものを失い続ける本郷猛

本郷猛は作品全体を通じて、守るべき人々を失います。緑川博士、ルリ子の唯一の友であり「ハチオーグ」のヒロミ、そして、ルリ子。過去に父を亡くした猛が力を望み、手に入れた力を行使したにも拘わらず、です。守るべき人間を亡くす不条理さに何度も打ちひしがれ、猛は嗚咽します。しかし、亡くしたルリ子との約束がありました。「チョウオーグ」であり、ルリ子の兄であるイチローを止める事。ルリ子が託したビデオを見ることで己の使命を今一度自覚し、最後の戦いへと臨みます。

人の死は簡潔であり、無常です。その中に感情を吐露させるのは深い絆がなければ到底起こりえません。そして同時に、亡くした人の思いを果たそうとするのは生きた人間だけです。幾たびもの死を乗り越え、己が使命を果たさんと向かう。これこそが「仮面ライダーらしさ」なのではないでしょうか。

孤独を好みながら、「仮面ライダー2号」として戦う男

後半、SHOCKERに洗脳され本郷猛との戦いの果てに、ルリ子によって目覚めたもう一人の「バッタオーグ」が登場します。その人物、一文字隼人は孤独を好み、猛と共闘することを最初は拒みました。しかし、一文字隼人はルリ子によって助けられ、ルリ子はそれによって「カマキリ・カメレオンオーグ」の凶刃に倒れました。その恩返しのように、猛に協力する隼人。「仮面ライダー2号」と名乗る彼と猛は戦いのうちに、二人にも絆が生まれていきます。心優しき強さで戦う猛と、孤独を好み戦いの才能を発揮する隼人の連携は目を見張るものがありました。

プラーナは死なず、友と側に生きる

しかし、隼人にも「仮面ライダー」としての宿命が訪れます。「チョウオーグ」との戦いの果てに、猛は生命力の源である「プラーナ」を失い、「チョウオーグ」と共にその姿を失いました。元々孤独を好む隼人でさえも、この死にただ呆然とするばかりでした。しかし、猛のプラーナは猛のヘルメットに格納されていました。隼人は猛のプラーナが移植された新たなヘルメットと装備を身に付け、二人で一人の仮面ライダーとして、新たな敵の元へと向かっていきました。

人が死ぬというのは何を持って言うのでしょうか。私ならば「誰の記憶にも現れなかったとき」と考えます。プラーナとは記憶であり、魂です。猛は真に死んだわけではなく、隼人と共に生きたいという思いがプラーナとして体現したのではないかと思いました。

まとめ:仮面ライダーが好きなら見ておきたい良作

監督が当時見た「仮面ライダー」を新たな解釈で構築した本作は普遍的な感動はありませんが、本郷猛の抱える苦悩と使命に対するカタルシスを提示しました。過去、そして現在でも新しい仮面ライダーが登場していますが、私にとっては「仮面ライダー」とは本来このようなヒーローなのではないかと感じました。鑑賞してとても良かったと思っています。また時が経ったら改めて見直してみようと思う、そんな作品でした。

 

それではまた明日。

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